学生の声

この歳で、、、この学校で勉強したくなった

「パールマンのバイオリン」  

76歳 今から約10年前、私が60歳代の後半のことです。(現在76歳)。 それは確か5月の連休で土日月と休みが続きました。例によって何かの国際セミナーで、それは土曜日でした。夕方まだ5時、定宿にしている新宿ワシントンホテルで、まだ夕飯にはちょっと早いし、部屋にあった新聞を見ると、サンケイホールでクラシックの音楽会があるようです。 その頃、日産のシーマを買って、カーステレオでクラシックを聴き始めた私は、ちょっとしたクラシックファンになっていました。それで、すぐサンケイホールに電話をして、また当日売りがあるかどうか、今からでも間に合うかどうか聞いてみました。  主演奏家はパールマンと言うアメリカのバイオリニストで、演奏する曲目は知らない曲名でしたが、パールマンの前にも有名なクリークのピアノ協奏曲をイギリスの女性ピアニストが演奏する、とあったので、それだけでも良いと思い行くことにしました。 サンケイホールに着くとホールはいっぱいで、少しの席だけあちこち空いていました。これが歌謡曲か何かのコンサートだったら、とても当日売りはありません。「やはりクラシックの人気は今一だな」なんて思いながら席につきました。

この時点で私の興味はパールマンのバイオリンではなくクリークのピアノ協奏曲でした。いよいよコンサートが始まりました。困ったことに私は妙に眠くなりました。そしてクリークのピアノ協奏曲が始まる頃にはウトウトし始めました。「困った、こんなことないんだけれど、どうしよう」私は眠ると大きないびきをかくのです。この後、肝心のパールマンのバイオリンが始まると言うのに、熱心な音楽ファンの真ん中で大きないびきをかくわけにはいきません。私はパールマンを聴かずにそのまま帰ろうかと思いました。しかし「ここまでいたんだ、何とか眠らずに最後までいよう。あと30分か40分だ。」とパールマンの前の休憩時間にトイレに行き決心しました。 さあ、パールマンの出番です。車椅子に乗ったパールマンが出てきました。私は相変わらず眠くてそれをこらえるのに必死でした。「いびきをかいてはいけない」ただそれだけでした。とパールマンの右手の弦が一尖、スーとおろされると何か一瞬会場が光に包まれました。私は驚きました。いっぺんに眠気が吹っ飛びました。それからはもう恍惚状態、すごい体験をしてしまいました。

甲府に帰って当時通っていた英会話スクールのアメリカから来た先生にこの事を話すと「牛山さん、どこでパールマンのコンサートのことを知ったのだ、私が知っていれば東京まで聴きに行ったのに」と、とても残念がって言うのです。パールマンはアメリカではとても人気があってなかなか入場券が手に入らないんだそうです。 それからしばらくしてテレビを見ていると、オバマ大統領の就任祝賀会が映っていたのです。そしてそこにあのパールマンが居るじゃありませんか。それに、チェロリストと、ピアニストと合計3人出演していました。「ああ、やはりパールマンはアメリカで相当有名な人なんだ。」と私はあの時、ホールが光に包まれた時のことを思い出しました。 私はバイオリンは弾けない.             しかし治療と言う私の世界で、一体私はどの域に達しているのだろう?それはテレビで美空ひばりを見ている時にも、私は落ち込むのでありました。

それからしばらくして、JOMAの会長、原田先生ともう1人の先生と3人で久しぶりに会おうと言うことになりました。夏の暑い日の晩、池袋で3人は会いました。冒頭、原田先生から「牛山さん、この秋からフランスのオステオパシーの学校の日本校をやることになりました。牛山さん、その学校に入りませんか?」と言われました。 「私はすぐに70歳になります。70歳からは何も勉強しないつもりです。」と即座にお断りしました。「それに学校に入ると今までしていたことを変えなきゃならないし。」 学校だから基礎的なことだから変える事はないですよ」とも言われました。ですが私はこの年でまた勉強を始める気持ちはありませんでした。10時半に新宿を出る「あずさ」に乗りました。 「原田先生からフランスのオステオパシーの学校に入るように誘われたけれど、もっと若ければなぁ」「でも人生は1回しかないしなぁ」とさっき断ったばかりなのに、そんなことばかり考えていて甲府駅につきました。 結局「人生は1回しかない。とことんやれるところまで勉強しよう。」という結論になり、入学することになりました。

                                                    SAJ一期生 卒業生 R.U